溜飲が下がった思いである
随分時間が経ったのだが、横綱朝青龍についてはどうしても合点がいかない
ま、マスコミに多くを期待することはないものの、朝青龍を擁護する弁がないものか気にはするもののあまりそのような記事にはお目にかからない。
今日は、何気なく見ていたWEBに、元横綱輪島氏のまさしくその通りであると膝を打ちたい品格問題について書かれてあった。
かなり優しくオブラートに包んだ表現であるが、これはSAPIOでの編集であろうか?
チョットそんな気もよぎるが、ま、是非ともお目を通して頂きたい。
朝青龍を目の敵にし、相撲協会を年中こき下ろすマスコミ。
ナントも不可解である。
ま、それはまた後で。
ではでは
>────────────────────────────── 転載
朝青龍を石もて追った角界・マスコミにあえて問う
土俵上の強さこそ「横綱の品格」ではないのか
(SAPIO 2010年5月12日号掲載) 2010年5月13日(木)配信
文=輪島大士(元横綱)
悪役横綱・朝青龍の登場で「横綱の品格」問題が長年マスコミを賑わし続けた。しかし、この議論こそ相撲界衰退の元凶ではないのか。北の湖とともに「輪湖時代」を築き、自身も豪快な振る舞いでマスコミの批判を浴びた元横綱、輪島大士氏が、真の横綱論と相撲界再生について語った。
相撲協会からいただいた私の横綱推挙状には「品格力量抜群に付き横綱に推挙す」と記されている。協会が横綱は単に強ければいいとは考えていないことは確かである。
しかし、私は横綱の品格は昇進後に作られるものだと考えている。つまり品格とは横綱の地位を守っていく中で生まれるもので、横綱昇進時に備わっている必要はない。あえていえば力士の品格とは土俵の上だけで問われるものではないかと思っているくらいだ。
引退前の朝青龍のように、私も不良横綱と言われていた。リンカーンを乗り回し、稽古もしないで銀座を飲み歩いているとマスコミにバッシングされたりもした。だが、私は稽古を積み重ねてきた自分を信じて土俵に上がり続けた。
朝青龍が人知れずどれぐらい稽古していたかは知らないが、稽古しないで横綱が務まるような甘い世界ではない。私だってやるときはやった。私は番付発表から初日までの2週間は徹底的に体をいじめ続けた。
口の悪いマスコミは「ランニングしかしていない」と言ったが、走って横綱になれたら苦労はしない。あれは瞬発力の鍛錬。誰も見ていないところで付け人を背負って階段を駆け上がり、その後に部屋でバーベルも上げた。自分が強くなるためにどうしたらいいかと考え、自分に何が足りないかを常に考えた。四股、鉄砲は相撲の基本。ぶつかり稽古をして、申し合いをする。相撲が強くなりたい者がそれを怠るわけはない。
“遊び人の金さん”じゃないが、遊びはカムフラージュのつもりだった。高校時代、大学時代の肉体の貯金をプロでさらに増やした。それも私としては好きな相撲を取るためにやったことだ。あとはライバルが自分を育ててくれた。
朝青龍とはたまにメシを食う仲だが、相撲が大好きな好青年だったと思う。昔の相撲のビデオを熱心に見ていて、私の取組もよく知っていた。「黄金のまわしを許可して欲しい」と言ってきたこともある。日本人力士より礼儀をわきまえている。
私のトレードマークだった黄金のまわしは、休場明けの場所に「心機一転」ということでタニマチの方からプレゼントされたもの。当時は裏で協会からもいろいろ言われたが、まったく気にすることなく土俵に上がった。
朝青龍は連勝中の05年3月場所に黄金のまわしで土俵に登場したが、栃東に28連勝を阻止されると、あっさり黒のまわしに戻した。実に朝青龍らしいと思った。
朝青龍は悪役になっていたが、相撲に対する研究心は凄かった。たしかに私生活においてわがままな面があったが、それはむしろ日本の親である高砂親方の責任。歴代3位となる25回の優勝を重ねており、力士としての朝青龍を誰も批判できるものではない。
私も場所中に「飲み歩いていた」と言われたが、それは誤解。銀座に毎日顔を出していたのは事実だが、ハシゴすることはなかった。いつも決まった店の決まった席に座っていた。当時、部屋が阿佐谷だったので、両国の最寄りの駒形ICから首都高に乗ると途中は銀座。ちょっと立ち寄っただけ。勝負師にしかわからないゲン担ぎだったのかもしれない。
ただ、お酒を飲んで憂さを晴らしたことはないし、飲んでいても酩酊することはなかった。その日の取組が終わった瞬間から、翌日の取組のことで頭が一杯。少なくとも場所中は酔いたくても酔えないのが本音だった。
場所中の15日間は、自分の相撲人生に終わりを告げる場所になるかもしれないという気持ちでやっている。こういう気持ちになるのは横綱だけ。平幕時代はゲン直しもしたが、横綱はゲン直しなどしている余裕はない。負ければ終わりだからだ。少なくとも横綱昇進直後の朝青龍にもそういう気持ちがあったと思うが、朝青龍を脅かす相手がいなかったことで、違う飲み方になっていったのかもしれない。
学士力士はもっと頭を使え
ライバルがいなければ、私は14回も優勝できなかった。大関に同時昇進した貴乃花(初代)とは何度も水入りをやったし、北の湖は私にとって本当にいいライバルだった。
北の湖の強さはハンパじゃなかった。優勝決定戦を何度もやり、2人で何場所も優勝を独占した時代があったが、北の湖が横綱に昇進するまでは私もひとり横綱だった。
忘れもしないのが、北の湖が大関として連続優勝を狙っていた74年7月場所。私が12勝2敗、北の湖は13勝1敗で千秋楽を迎えた。北の湖の横綱昇進はすでに決まっていたが、こっちはひとり横綱として連続優勝を許すわけにはいかなかった。
本割で勝ち、優勝決定戦に持ち込んで、それも勝てた。2番続けて勝ったことでその後5年間続けることができたが、そこで負けていたら、引退していたかもしれない。
横綱の役割とは優勝争いに絡むことである。そう考えることで横綱としての品格は形成される。25回も優勝しているのだから、朝青龍は横綱として土俵上では十分責務を果たしていたと言える。
朝青龍には外国人力士というハンデもある。私は故郷・石川を背負っていたが、朝青龍はモンゴルという国を背負っていた。そのプレッシャーは並大抵ではなかっただろう。それだけに高砂親方がもっとうまく立ち回っていたら、違う方向に向いたのではないだろうか。外国人力士をスカウトしたのだから、その責任を果たすべきだった。
国技・大相撲には350年の歴史があり、部屋では古いしきたりがいくつもある。日本人の私にも理解できないことがたくさんあったのだから、外国人の朝青龍には教育が必要だということは角界に籍を置いた者なら誰にでもわかることだった。
朝青龍がダメ押しをするとか、土俵上の態度がよくないと言われたが、北の湖だって土俵下の相手に手を差し出したところなど見たことがないし、ふてぶてしさは憎たらしいほどだった。それでも引退後は理事長として協会員1000人の頂点に立って協会を束ねた。横綱に決まった型などない。
日本人が横綱になれば再び相撲人気が出る。でもそれは難しい。今の日本人力士はあまりにもしまりがなさ過ぎるからだ。大関で元気なのは外国人力士だけ。学士力士もふがいない。大学を出ているのだから、もっと頭を使えと言いたい。
私は日大時代の4年間でがむしゃらに勉強をした。もちろん相撲に関してだ。「輪島は羽織のたたみ方を知らない」「チャンコ鍋も作れない」と悪口を言われたが、大学の1、2年の時、毎日それをやっていた。体重も100kgしかなかったため、どうすれば巨漢力士に勝てるかを研究した。それで編み出したのが左からの下手投げだった。
のちに「黄金の左」と称されるようになったが、相撲では不利と言われた下手投げを武器にした。親方の中には「ヘタ(下手)投げ」とバカにする者もいたが、私は技を徹底的に磨き上げた。大学の4年間を下積み時代と考える学士力士が出れば、学士横綱も誕生するはず。アマチュアの相撲取りはフンドシを締め直せ。そして外国人力士に負けるな。
最後に一言付け加えるならば、もっと師匠を尊敬すること。私は師匠の前では常に直立不動だった。昔は部屋の師匠を頂点にした縦の関係がはっきりしていたし、師匠がいなければ輪島はなかった。師匠はお父さん、女将さんはお母さん。それが角界のしきたり。朝青龍にもこれを教育してもらいたかった。
師匠は師匠。現役時代の番付など関係ない。師匠から怒られたら反発するのではなく、なぜ怒られたかを反省する。相撲に勝てということは、稽古に精進しろということ。私は遊ぶために稽古に精進したが、理由はともあれ、相撲復活には日本人力士の頑張りしかないことを肝に銘じてもらいたい。
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